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執筆者の写真功一 中川

「行動経済学は死んだ」のか【行動経済学15】

「行動経済学は死んだ」のか【行動経済学15】



前回で一応の内容としての最終回ではありましたが、本日は特別編としまして、世界的な議論となっております「行動経済学は死んだのか」という話につきまして、私(中川功一)なりの見解をお伝えさせていただきます。



行動経済学は死んだ



世界的な反響を呼んでいるエッセイがあります。ジェイソン・フレハさんという方なのですが、行動科学の実践側の第一人者とされる人です。アメリカ最大の小売りチェーン・ウォルマートで、行動科学チームのグローバルトップを務めていらっしゃる方です。


この人は、行動科学(行動経済学を含む、様々な人の行動や心理に関する科学的知見)を使ってマーケティングに応用するという仕事をしていたんですけども、そんな中でも、行動経済学というものは本当に力になっているのかといえば、私はノーじゃないのかなと思うと、そのような発言をしているんです。


こちらの「The death of behavioral economics」、皆さんもご覧いただけます。ご興味ある方はぜひ読んでみるといいかと思います。


この方はウォルマートでの自身の経験も踏まえつつ、またアカデミアでの実際の現状を踏まえつつ、行動経済学ってのは非常に再現性が危ないものだし、効果も弱いということで、私は行動経済学をそんなに過信しちゃいけないな、この学問はちょっと限界があるんじゃないかなということを述べているんです。


私は行動経済学の一連の講義シリーズをこのブログやYouTuberでやってきたんですけども、それをご覧いただいた方から、行動経済学は死んだと最近世界的に言われてますけど、どう思いますかという質問を頂戴したので、私も自分の見解をお答えしたいなと思います。


なぜ行動経済学は死んだと言われるのか



じゃあこのジェイソンさんが果たしてどういうことを問題視していたかというと、第1には、行動経済学の主要な発見事実というのは、もうしばらくずっと再現性を得るのに失敗していると、条件を変え様々に変えた環境だと効果がないっていうことが、論文として検証されてしまっているということ。そして、それは実際に自分がウォルマートで経験してる実感からもその通りで、非常に微妙な条件で、効いたり効かなくなったりしてしまうということ。


そして第2は、行動経済学による介入の現場への影響というのは極めて小さいこと。もっとマーケティングの仕掛け的に効くものはたくさんある中で、いわゆる行動経済学的な、ナッジみたいなものは、ほんのわずかな効果しかないのだ、と。そしてそれはまた今日、学術的にも検証されるようになってきてしまっている。


このような実態を踏まえた上で、ジェイソンさんは、このように主張します。


行動経済学を武器にしてマーケティングをしようと考えるよりは、結局やっぱりマーケティングというのは自分たちのクリエイティビティ、発想力というものを使って、新しいこと、驚き喜び、それを届けるという方がマーケターとして自然な行動なんではないだろうかと、このような主張をしているわけです。


で、この主張の真偽についてなんですけど、率直なところ私も学者目線で見て、極めて妥当な主張だと思います。


論文というのは、一般的に効果がありました、というものしか採択されない。なかなか「この効果はありませんでした」という論文は出てこない。最近ようやく「この実験は失敗しました」っていうのも、ちゃんと発表するようになったくらい。で、ようやく、再現性が危ういんじゃないのということが見えてきた。


また、フレハさんが最後に指摘している「もっと効果的なマーケティングが前提としてある」も首肯します。


マーケティングってのは実は他にもいろんな手法があって、それらのことを総合的に組み合わせないと、良いマーケティング策となる。行動経済学を理解して人間の微妙な心理を理解して、それをちょっとプライシングに反映させたからって、それ自体が持つ効果というのは、他の効果に埋もれてさほど大きくないというのも妥当な見方なのではないかと思うんです。


本当に行動経済学は学術的に死んだのか



問題は、以上のことから、行動経済学は死んだと言えるのかどうか、ということです。


この点について私はThe death of behavioral economicsとまでは言えない、という立場におります。それは何でなのか。これだけ再現性も危うくこれだけ効果も薄いものであるけれども、なぜ行動経済学はそれで死んだと言えないのか。


その理由は、全ての社会科学がそもそもそういう性質のものだからです。


行動経済学だけを再現性がないじゃないかと批判するのはお門違いであって、そもそもそれって社会科学って本来的にどういうものなのか。


これに対するある種の実務家からの真摯な問いを頂戴してるということなんだと思います。


「科学」というもの



科学というのは、どういうものなのか、とりわけこの実証科学実とはどういうものなのか。実験だとかを通じて、その現象が実在するかどうか検証する実証科学というものは、そもそも極めて限定的な状況のもと、ごくコントロールされた条件のもとで、確率的に再現されるものなんです。


それはすなわち、例外事象というのを必ず含んでいるものなんですね。行動経済学だけじゃなくて、例えばいわゆるモチベーション理論、組織行動論みたいな分野だってそうだし、マーケティングの消費者行動論だってそうだし、あるいは戦略論のイノベーターのジレンマだっていかなる理論と呼ばれるものも、何でもかんでもこういう条件が揃ったときに発動されますねというのが社会科学の理論というものです。


実験室の中で本当に綺麗に条件を整えたときだけ成立するのが、理論というものなんです。


もう、あけすけに言って理論というのはそういうものなのです。


でも、条件が整っていればそれが発生する。そのことは事実。


だが、それが応用される現場・現実においては、森羅万象が作用するなかで、おそらくは一つ一つの理論の効果というのは極めて限定的か、あるいは掻き消えてしまうだろう。そういうものなのです。


これっていうのが、一般的に社会科学における理論というものの位置づけですが、実はこれは自然科学でも同じなんです。


極めて再現性が高い科学というのはせいぜい物理ぐらいのもので、例えば医学みたいな分野においても、すなわちワクチンの効果にしたって%で表現される。あなたにワクチンが効くかどうかっていうのは、確率的な事象なわけです。


物理学なら100%絶対にそれが成功すると保証されるかといえば、結局この素粒子というものが悪さをして、予定外の結果というものが億分の1の確率でも生じうるわけなので、この意味において社会科学のみならず自然科学にあったとしても、基本的に、事象というのは確率的に生じる。それも徹底的に条件をコントロールした場合において、です。


数百億円かけてスーパーカミオカンデを作って、それでようやくニュートリノが確率的に観察されると、そういう世界なわけですから。


森羅万象が作用する現実



じゃあ何でこういうことになってしまうのかといえば、私達は森羅万象が作用する宇宙というものの中に生きているからです。例えば人間の心理みたいなものも、この人がやる気を出すかどうかとか物を買いたいと思うかどうかっていうのは、まさに森羅万象の中です。


その人が今日その日どういう気分どういう体調どういう感情でスーパーマーケットに入ってきたのか。そこに行くにあたって自動車を使ったのか自転車を使ったのか、かごを持ってきたのか持ってきてないのか財布の中にどのくらい入っているのか、夕飯何を食べようと思っているのかご家族は今日どんな生活をしてきたのか、まさに森羅万象の中にあって、物を買うとかという行為は決まってくるわけです。


だとすれば、その中で行動経済学のちょっとしたナッジが果たしている役割があって、ごくごく微妙なものなんていうのはある意味で、社会科学的には当たり前だということになるわけなんです。


しかし、このように述べてしまうと皆さんは、社会科学の理論なんてのは何のために存在するのと、私達の人間の活動のほんの数%ですら説明できてなくて、それも確率的な事象だというのであれば、確かにそんな科学なんていらないんじゃないのか、そう言いたくなる気持ちもわかります。


学者という生き物



しかしです、それでもなお学者は死屍累々屍を積み上げていって前に進んでいく生き物です。


なぜなら私達はまさにその人間行動の真理を解き明かしたい、この宇宙の真理を解き明かしたいと思っているからです。結局このまさに森羅万象をこそ解明したいのですよ。あなたが今この場で何をしているのか、それは本当に様々なものの相互作用のもとで今のあなたがあるんだとして、その本当に私達の理論で説明できるのはわずか0.0001%かもしれない。


でもその0.0001%を積み上げていくことを通じて、私達は今の社会、今の現実というものがどのように出来上がっているかということを理解していくわけです。


企業経営にしても、マーケティングについても、まったくもってこれなんです。


何であなたがこの日この商品を買ったのか、それは1個の理論では説明できないかもしれないけれども、そういった活動が行動経済学もそうだしマーケティングもそうだし消費者心理学もそうだし、経営戦略論もそうだし、財務会計もそうだし経済学もそうだし、いろんな学問が総合的に組み合わされて、なんであなたが今こういう行動をしているのか、その真理たるものに少しでも近づこうというのが学問というものなんです。


だとすればです。このわずかな0.0001%かもしれないけども、それが少しずつ積み上がっていって、1%にも満たないかもしれないけれども。0%のままでいますか、それとも、私達はその無知の知というものを理解して、わずかな知識でも積み上げていって、この社会の真理に到達しようとする、どちらの方がこの社会のためになるだろうかと考えたときに、少しずつでも、この社会の心理に近づいていこうとそう志した人たちがやってることっていうのが、研究というものになるわけなんです。



かくして、行動経済学というものが、消費者行動のほんのわずかな割合しか説明してくれなかったとしても、しかもそれが確率的に生じて、再現性が非常に低いものであったとしても、その知識というのはとても尊い知識だ、というのが私の立場です。そうした先人たちの努力の積み上げの果てに、より良いこの社会の理解というものが出来上がってくる。


一方で、皆さんはどのようにして学問というものに対峙していくべきなのか。


もうおわかりいただけているかもしれませんけれども、結局この現実というものが、様々な理論が複合的に生じているものであるならば、皆さんにおかれても一つの学問分野だけを利用して物事を考えるのではなくて、常に物事は様々な理論の複合によるものなんだ、それでも説明がつかない事象があるのが現実なんだという態度で学問を応用していただきたいと思います。これが、学問の力を社会に生かすために必要な姿勢になるわけです。


そのような意味で、再現性が低いからといって効果が小さいからといって、その知識は使えないと、捨てるのではなく、そうした僅かな物事を探るための手がかりを積み上げていって、皆さんには、行動経済学もまたその他の学問もあなたの良き人生のために活用していただきたいなと願っております。


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